1919年3月3日東京市神田錦町桃太郎産院で、父・晃、母・シカヲの長男として誕生。
1920年5月中華民国吉林省長春市に渡る。父は南満洲鉄道養成所を経て、満鉄長春貨物駅に転職。
1926年4月長春市の満鉄附属室町小学校入学。
1928年4月26日父が急性肺炎で逝去、享年39歳。父母の故郷・佐賀県に戻り、西与賀小学校3年生に転校.祖母と2人の生活に入る。母は長春の西広場小学校の教職に戻る。小学校では図画、工作、音楽、理科に才能を発揮。
1932年4月佐賀市の龍谷中学校入学。絵画部と音楽部に所属。映画への関心深まる。ディズニーの極彩色短編漫画シリーズ「Silly Symphonies」等を観て、生涯の仕事と決意する。この頃に襖でミッキー・マウスの模写を始める。
1936年4月東京・日本美術学校図案応用科入学。入学試験に「漫画映画について」の小論提出。9.5ミリカメラと映写機を購入、漫画映画のテスト制作や漫画上映の映画館回りと漫画映画青年そのものの学生生活を送る。
1938年3月卒業制作に、「漫画映画の出来るまで」発表。卒業生代表で答辞を述べる。卒業後、東亜医科学研究所、東京女子美術工芸学校、東京宝塚劇場舞台課等で働く。
1939年12月15日芸術映画社入社(漫画映画班)。新聞の募集案内に応募、16ミリテストフイルム、自作の背景とセルを持って瀬尾光世の面接を受け即採用決定。瀬尾に師事し文化映画のタイトル、線画の作画と撮影。漫画映画の勉強を始める。
1940年4月『アヒルの陸戦隊』完成。プロとして参加した漫画映画第1作。瀬尾光世の指導のもとで背景を全カット作画。4月に佐賀県の本籍地で徴兵検査を受けて合格。ただし報道班員として兵役が免除される。
1941年10月『アリチャン』完成。日本で初めての4段マルチ撮影台を開発。
1942年2月1日満鉄機関区運転手、山口正太・キノ夫妻の長女、山口綾子と山王神社で結婚。11月5日に長女、伯子誕生。
1943年3月25日『桃太郎の海鷲』、白系劇場封切。日本最初の長編漫画映画で初の文部省推薦。映画旬報ベストテン第3位。戦意高揚漫画映画で、興業は大成功、少年航空隊の志願者も増大し、海軍省報道部はその宣伝効果と煽動性の大きさを再認識。
1944年11月9日『フクちゃんの潜水艦』技術者の徴用、物資不足、空襲の中で完成、紅系劇場封切、大ヒット。
1945年4月東京空襲で新宿の自宅全焼。5月に朝日映画社退職。母、妻、長女を連れて、新京(長春)に渡る。
   7月15日満洲映画協会啓民映画部の木村荘十二氏の推挙で美術部に臨時社員として入社。
   10月1日「満映」は中国人による東北電影公司として再出発。持永は卡通股導演(アニメーション班演出)として参加。
1946年1月5日次女、貴子誕生。
   5月23日東北電影公司、戦火を避け黒龍江省ハルビン、ジャムスを経由して興山へ移動。スタッフと家族(日本人81人含む278人)、映画機材、鉄道貨車37両で、10日間かけて移動、6月1日、興山に到着。映画根拠地の建設(住宅、スタジオ建設、保育園・日本人小学校建設)を日中スタッフの総力でやり遂げる。母は日本人小学校教員と保母、妻も保母、後にアニメーションで活躍。
   10月1日東北電影製片廠成立。廠長、哀牧之、党支部書記兼芸術創作責任者、陳波児。国内戦争下の新たなる戦意高揚教育宣伝映画の制作と映画技術者の養成に尽力。
1947年5月廠の最重要課題としての大型ニュース記録映画「民主東北」シリーズ製作(このシリーズは49年、第17輯まで続く)に従事し、タイトル・説明図作画、撮影、現像と多忙の日々が続く。陳波児の、新聞の1コマ漫画の映像化の提起に応え、廠の各部上げての創意工夫の中で、立体の人形で一コマつづ撮影する木偶片(人形アニメーション)を開発。試作「翻身年」完成。
1947年11月木偶片「皇帝夢」完成、「民主東北」第4輯と併映。蒋介石と米国国長官マーシャルの人形で、人々に戦局を的確に伝え、奮起を訴えた。
1948年6月延安電影製片廠を閉じ、興山に移り東北電影製片廠に合流。
   10月アニメーション「甕中捉亀」、完成、「民主東北」第9輯と共に兵士、農民に対する上映活動を展開。
   10月19日人民解放軍、長春解放
1949年1月31日人民解放軍、北京入城,4月23日南京解放。
   4月東方電影製片脈、興山より長春に帰る。
   5月27日メーデー大行進。
   7月中華全国文学芸術工作者第一次代表大会北京で開催。
   8月27日上海解放。
   10月1日中華人民共和国建国。中央人民政府の下に電影局が設立。局長、袁牧之。電影局の下に芸術委員会(責任者、蔡楚生・陳波児)と技術委員会(史東山)を設立。
   11月16日上海電影製片廠設立。廠長、干伶、副廠長、鍾敬之。
   11月30日重慶解放。
   12月蒋介石政権、台湾に逃亡。
1950年2月特偉と2人、中国美術片の拠点造りの特命を受け、北京へ。
北京で夏衍らと相談の結果、上海へ向かう。
   5月萬超塵、銭家駿らの協力を得て上海電影製片廠の中に美術片組を創立。興山・長春で育成したスタッフも合流。以降、美術片組の総技師として「謝謝小花猫」(50年)、「小鉄柱」(51年)、「小猫釣魚」(51年)、「採麿菇」(53年)の4本の動画片の制作と、中国美術片の拠点としての製作廠造りに尽力。
   10月25日6月25日から始まった朝鮮戦争に中国軍参戦。凍結されていた外国資産の「白雪姫」「ファンタジア」を研究資料として試写。この年、陳波児を所長として映画俳優養成の「電影表演芸術研究所」設立。北京電影学院の前身となる。
1951年5月関節炎再発、二カ月間の入院。見舞いに来た廠の仲間とコマ撮りアニメーションの可能性について懇談。翌朝、懇談の予定だったが、陳波児、持病の心臓病で急死。上海追悼会で最後のお別れの挨拶をする。
1952年上海電影製片廠全体で組織された技術委且会に、美術片組から任命。新中国初のカラー劇映剛『梁月伯と祝英台』のカラーテストに参加。
1953年3月5日日中両国赤十字社の旧満州「日本人居留民帰国に関する共同コミュニケ」発表。この合意で53年3月から58年までの21次にわたり約3万3千人の邦人が帰国。
   5月11日母、長女と次女が自由丸で帰国。7月6日に妻も自龍丸で帰国。
   8月11日子供の教育と経済的な問題を決意。廠をあげての歓迎会開かれる。帰国にあたり夏衍と懇談。第5次中共帰還船団の自由丸で帰国、舞鶴港に接岸。(34歳)中国在住8年間のお土産は①コマ撮り人形映画の技術、②1ページに3秒の記録用紙、④持永らが考案した検査システム、そして⑤日中の「電影事業」における連帯の絆であった。また、芸術映画社時代の侵略戦争下における漫画映画から、前後の長春・興山・上海での人形アニメーション、セルフアニメーションまで、奮闘し製作してきたこの大きな体験をいかに日本で伝え、生かして行く事が出来るかが問題であった。帰国後、飯沢匡・小畑敏一・金指英一・田中喜次・土井伊・大村英之助・稲村喜一ら多くの関係者との交流が始る。帰国後、初仕事は朝日ビールのテレビCM「ほろにが君とミツ子さん」シリーズ全2作のコマ撮り人形アニメーションの技術指導から始まる。
1955年8月人形映画製作所設立。代表に芸術映画社時代の稲村喜一氏。日本で初のコマ撮り人形映画『瓜子姫とあまのじゃく』(56年)制作。『ちびくろさんぼのとらたいじ』(56年)では第1回バンクーバー国際映画祭児童映画部門の最優秀賞を受け、日本アニメーションの海外市場開拓の先駆けとなる。他に『五匹の子猿たち』(56年)、『ちびくろさんぽとふたごのおとうと』(57年)、『ふしぎな太鼓』(57年)、『こぶとり』(58年)、『ぶんぶくちやがま』(58年)、『ペンギンぼうやルルとキキ』(58年)と日本の子供達に観てもらうための人形映画製作が始まる。
1957年4月美術片組が上海電影製片廠から独立、上海美術電影製片廠成立。廠長、盛特偉、副廠長、萬超塵・斬夕。
1960年5月7日人形映画製作所代表、稲村喜一氏死去。
   9月MOM プロダクション設立。米国のビデオ・クラフト・インターナショナル社製作の人形アニメーション映画の下請け製作の仕事が電通経由で入る。バンクーバー国際映画祭受賞の因縁からの発注。作品は、TVシリーズ「The New Adventures of Pinocchio」1話5分、130本をはじめ、「Rudolph The Red Nosed Reindeer」など、7年間で6作品を納品。持永は、“Animagic” Technician TAD MOCHINAGAとクレジットされ、下請け製作の現場演出とアニメーターとして多くのスタッフをリードし、人形アニメーション映画の発展に向かって尽力。
1967年4月中国通信社入社。映像部門に旧知の陳抗氏の推薦で入る。
   9月17日新華社と中央電視台の招待で13年ぶりに中国訪問(〜10月30日)。10月20日、上海美術電影製片廠を訪問。
1970年8月玄光社『小型映画』アニメと特撮増刊号に「人形アニメの基本と応用」寄稿。
1971年8月10日日本アニメーション協会発足。運営委員長、久里洋二氏。
1972年10月17日12月2日まで、初の中国取材。香港から入り、長春まで各地のテレビ局の全面的な協力を得て取材。演出・撮影、持永只仁。助手、林祐発。帰国後、記録映画『躍進中国、東北地方』(73年)、『人民の軍隊』(73年)『わたしのお母さんは労働者』(73年)製作。
   12月28日ランキン・バス・プロダクションのディレクター、長島喜三死去。この年より『川本十岡本パペットアニメーショウ』第1回公演を発表(80年までに6回公演)。
1976年1月8日周恩来総理死去。
   2月中国通信社記録映画『はだしの医者』、『南京魯迅中学』完成。演出・撮影、持永只仁。
   4月5日天安門事件(四・五事件)。
   9月9日毛沢東主席死去。
   9月14日毛沢東弔問式。方明、李光、伍国群の3名で中国通信社を代表して記帳する。
1977年11月雑誌『中国映画』に「中国映画の歴史―人民映画の中で-」を執筆。
1978年10月17日中国文化部電影局招待「第1次東影訪中団13名」長春、北京、上海訪問(10月31日)。
   10月記録映画『美しき牧場』ラフカット。演出・撮影、持永只仁。助手、林祐発。
1979年3月2日
1980年2月手塚治虫を団長とする日本アニメーション界の代表団訪中。12月、中国中央電視台で手塚治虫の『鉄腕アトム』放映される。
1981年4月3日日本アニメーション協会主催『中国上海美術電影製片廠作品展』西武スタジオ200で開催。特偉、厳定憲、段孝萱来日。
   10月1日長春電影製片廠創立35周年式典に出席。式典で東北電影製片廠第1回動画片作品『甕中捉鼈』の演出として記念表彰される。
1982年4月2日上海美術電影製片廠の要請により、日本の著作権問題の専門家、中尾光夫弁護士を上海に案内し映像における著作権の諸問題について勉強会を開く。この年、上海美術電影製片廠創立25周年式典。参列する。
▼上海美術電影製片廠、水墨動画片『鹿鈴』、第13回モスクワ映画祭特別賞受賞。
1983年1月28日母、シカヲが逝去、享年88歳。
   9月7日上海美術電影製片廠の要請で日本のナックのクイック・アクション・レコーダ導入にあたり技術指導に妻と滞在する。
1985年上海美術電影製片廠の要請により技術指導の応援で上海に滞在(9月30日)。技術実習として木偶片『喵鳴是誰叫的』に脚本・技術指導を担当製作する。
   6月童映社設立に参加。
   7月東京・国立近代美術館フィルムセンターで「中国映画の回顧展」開催。9月まで)。
   8月21日第1回広島国際アニメーションフェステイバル開催(〜8月23日)。上海より常光希、蒋采凡、王樹忱が審査委員として来日。剪紙片『火童』受賞。
   8月31日北京電影学院の招請に応え1年間の「美術電影」の講師生活に入る(翌年7月18日まで)。
   10月7日興山時代の指導者・舒群氏の訪問を受ける。
1986年3月23日芸術映画社創立者、プロデューサー・大村英之助氏死去。
   10月18日中国アニメの先駆者萬籟鳴、古蟾、超塵、滌寰四兄弟活動60周年記念会に出席挨拶。
1987年8月15日上海美術電影製片廠創立30周年式典3列。廠史『美影州周年』記念出版される。
8月21日 第2回広島国際アニメーションフェスティバル開催(〜8月26日)。特偉、国際審査委員として参加。続いて東京、西武スタジオ200にて講演会に参加。この頃、童映社の初仕事として、中国アニメーションの日本への紹介に監修として尽力。レーザーディスク2枚を出版。この年、人形アニメーションシナリオ『二つの太陽』、『白いぼうしの丘』第1稿上がる。
1988年10月14日西武スタジオ200主催「中国美術電影動画回顧展」開催(〜10月19日)。
▼この年、小野耕世『中国のアニメーション』平凡社より出版。
1992年4月24日持永只仁監督人形映画『少年と子だぬき』完成。この作品が最後の作品となる。
8月20日 第4回広島国際アニメーションフェスティバル国際審査委員に
1999年4月1日持永只仁、15時25分。腎不全のため永眠。享年80歳。納骨は佐賀の菩提寺、本行寺と東京、多聞寺の「映画人の墓」に分骨される。
   7月1日日本アニメーション学会発行『ア11メーション研究』創刊号に追悼寄稿集掲載。
1999年10月8日~2000年2月6日「ピクチャーズ・イン・モーション-日本のアニメーション表現」(東京都写真美術館)持永只仁・岡本忠成・川本喜八郎の展示会・川本喜八郎の講演会を開催。
https://topmuseum.jp/contents/details/i_1999_2000/1999_010_b.pdf
2000年2月8日第54回「毎日映画コンクール」特別賞受賞(音楽の故・佐藤勝と撮影の故・宮月1夫と共に)。
   8月24日第8回広島国際アニメーションフェスティバルで『追悼特別上映と特別展示会』開催(〜28日)。作品を6本上映の他、80年間の足跡を人形・写真・出版物・遺品・模擬撮影セット・4段マルチ撮影セットを展示、ビデオ小劇場で関連作品の紹介。上海美術電影製片廠から、追悼文と貢建英、丁大波、王大為、常光希の代表参加。
2003年5月30日おかだえみこ『人形〔パペット〕アニメーションの魅力』河出書房新社より出版。
2004年2月3日DVD『日本のアートアニメーション映画選集』全12巻出版。映像文化製作者連盟設立50周年企画、製作・販売、紀伊国屋書店。持永関係作品、「アリチャン」はじめ、計9本選定。
2005年3月31日『東京国際アニメフェア2005』開催。東京ビックサイト。特別功労賞「日本のアニメをつくった20人」を受賞。
  9月6日杉並アニメーションミュージアムにて「日本のアニメをつくった20人」特別展(〜10月30日)。
  12月中国映画百周年を記念して「中国電影博物館」が北京に開館。開館記念展に関連写真を出品。
2010年2月5日~7日「持永只仁をめぐる日中アニメ・シンポジウム」(文化庁、佐賀県地域文化芸術振興プラン、ふるさと映像塾)を開催。段孝萱、鈴木伸一、眞賀里文子、持永伯子らが講演やシンポジウムに登壇。
https://www.saga-u.ac.jp/koho/220205anime.pdf
2016年日本アニメーションの過去・現在・未来「持永只仁と日本の人形アニメーション展」(第5回佐賀大学 コンテンツデザインコンテスト特別企画)
https://museum.saga-u.ac.jp/wp-content/uploads/2016/12/82074966180423043e26bd3d0144b9fc.pdf
2017年5月13日~9月10日「企画展 人形アニメーション作家 持永只仁」(東京国立近代美術館フィルムセンター 展示室)展覧会の構成:第1章 アニメーションへの志、第2章 新生中国のために、第3章 国産人形アニメーションの礎、第4章 アメリカ・中国・日本―アニメーション交流の懸け橋。
https://www2.nfaj.go.jp/exhibition/mochinaga/#section1-4
2017年11月22日~26日「持永只仁展~人形アニメーションを通した日中友好の足跡を追う」(京都おもちゃ映画博物館)を開催。中島貞夫、持永伯子、向陽らが講話。
https://toyfilm-museum.jp/blog/column/6262.html
2019年9月16日上映とシンポジウム「雑司が谷が発祥地!中国と日本の人形アニメーションの創始者・持永只仁と川本喜八郎」(としま産業振興プラザ)。講演:和田敏克・持永伯子、シンポジスト:壹岐國芳、和田敏克・持永伯子、細川晋、東アジア文化都市2019豊島実行委員会主催/豊島区
2024年10月29日上映会、講演、シンポジウム「伝説の人形アニメ映画の秘史を探る 持永只仁と人形映画製作所」講演者:壹岐國芳、司会:朝倉史朗、シンポジスト:角 和博、眞賀里文子
2025年8月24日~25日「持永只仁アーカイブツアー」(佐賀大学本庄キャンパス総合研究1号館角研究室,⽇本アニメーション学会第26回⼤会)、ツアー解説者:角 和博
2025年8月25日シンポジウム「人形アニメーションのこれまでとこれから」,第1部:アーカイブと証言からみる持永只仁の人形アニメーション,司会:角和博、シンポジスト:細川晋(東京工芸大学)、田畑博司、京子(人形制作者),(佐賀大学教育学部1号館104教室,⽇本アニメーション学会第26回⼤会)